『「右翼」とは何か』
鳥海山(山形県)の麓に武田邦太郎という人物が住んでいた。武田は戦前、石原莞爾に私淑し、国家社会主義団体「東亜連盟」に参加する。
同志の中には朝鮮独立運動の闘士で、後に民団創設にも関わった曹寧柱もいた。韓国・慶尚北道に生まれた曹は1934年に日本に渡り、京都帝大に入るも滝川事件(京大における思想弾圧事件。多くの教員・学生が「赤化」を理由に追放された)に連座して退学。その後、立命館大学に移って空手を習い、腕っぷしの強さは日本中に知られた。
武田は石原を介して曹と知り合い、親友となる。
戦後まもない時期の武田は「右翼」活動家として知られた。右翼政党「協和党」などの党首を務めたが、その政策は一般的な「右翼」とは異なっていた。日本の再軍備には反対し、アジア各国の主権を尊重、相互連携を目指すと主張した。戦争放棄をうたった憲法9条の順守を誓った右翼など、この時代に協和党を置いて他にない。
私が武田を訪ねたのは10年ほど前のことだ。そのころ、武田は晴耕雨読の生活で、石原莞爾の”墓守り”だけは欠かすことはなかった。
武田と一緒に裏山に建つ石原の墓を訪ねた。ちょうど山桜が満開で、木立が淡い桃色にかすんでいた。足腰が弱っていた武田は、杖をつきながら、ゆっくりと山の斜面を登っていた。
山の頂に立ったとき、武田が不意に話しかけてきた。
「靖国(神社)の桜は咲きましたか?」
武田は私の答えを待つでもなく、独り言をつぶやくように、こう続けた。
「靖国の桜はソメイヨシノですな。私はソメイヨシノが好きではないんです。あまりに華美で、自己主張が強すぎるような気がするんです。人工的な感じもします。その点、山桜はいい。素朴で、ひっそりと、控えめに、昔からそこにいるように、優しく咲いている。風景の中で浮き上がることなく、自然と調和している」
それだけ話すと武田は、またゆっくりとした足取りで山を下りた。
武田は何を伝えたかったのか。霞が湧きたつような山桜の風景に、何を思ったのか。あのとき、真意を聞きそびれてしまったことを後悔している。武田はすでにこの世にいない。7年前に99歳で亡くなった。
おそらく武田は、勇ましく挑発的な言葉で「愛国」が扇動される風潮を、ソメイヨシノに例えてやんわりと批判したのだろう。武田にとって「右翼」とは、歴史の風雪に耐えながら、里山をふわっと淡く浮き出させる山桜のような存在だったに違いない。
少し前、久しぶりに鳥海山の石原墓地を訪ねた。
石原は「満州事変」を企て、中国侵略の突破口を開いた、彼の唱えた「五族協和」にいかなる理想が込められていようが、少なくとも一時期、侵略する側に立っていたことは間違いない事実だ。そうした意味において、私自身は石原の信奉者ではない。
だが、先に述べた曹寧柱も、そして武田も、石原を通して「アジアの団結」を夢見ていた。あの時代、彼らなりの「夢」を模索していた。
石原の墓所には訪れた人のための参拝ノートが置かれていた。私の目に飛び込んできたのは、差別に満ちた下劣な言葉だった。
「いま、日本の教育は朝鮮人や支那人によって歪められ……」「いつの日か朝鮮人や支那人を追放し……素晴らしい日本を取り戻す日が来るまで見守ってください」
万緑の世界が、突然、汚泥で塗りつぶされたような気分となった。
こんな場所にも薄汚いネトウヨが来るのだろう。
右翼には右翼として積み重ねてきた歴史がある。財閥の腐敗に憤り、農村の疲弊に涙したのが、かつての右翼だった。それこそが本来の右翼という立ち位置であったはずだ。山の斜面で長きにわたって日本の風景を守り続けてきた山桜のような存在ではなかったのか。
このほど、私は『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)を上梓した。
戦後という時間の中で「右翼」はどのような変遷をたどり、そして、日本社会にあってどのような存在であり続けたのか。多くの関係者への取材を通して、簡潔にまとめた。
興味がある方は手に取っていただきたい。「右翼」礼賛の本ではない。「右翼」の理解を助けるための本でもない。
常に「右翼」を利用し続け、そしていま、自らが「極右」の道を歩もうとしている日本社会を描いたものだと思っている。
(安田浩一)