インタビュー(第2号掲載)
![]()
プロフィール:1964年2月1日生。福岡県出身、早稲田大学教育学部卒。趣味は読書・音楽鑑賞にカメラ、パソコン。本籍は慶尚南道釜山である。
![]()
「在日には本名を名乗って日本社会に通じるスターが必要なんだよな」
「青年会に出てくれって言っても、やっぱり民族がカッコよくなきゃ出てこないよ」
確かに本名を名乗って日本社会でバリバリ一流の活躍をしている同胞は少ない。だが、ちょっと待って欲しい。
金哲彦、二十六歳。世界でもトップレベルの日本のマラソン界にあって、一九八七年別大(別府大分)マラソンで三位、一九八九年の東京国際マラソンでも三位と、メジャーな大会での堂々たる成績だ。彼の名前がテレビで連呼されるのを耳にした記憶のある同胞は多いだろう。
しかし、そのはなやかな活躍の陰で、彼は在日の宿命とも言うべき困難に悩まされながら走り続けていたのである。このインタビューでは、そうした金選手の苦悩を探りながら、スポーツにかけた一在日青年の生きかたを明らかにしたい。
![]()
金選手が走り始めたのは、小学校時代のことである。
最初サッカーをやってたんです。やっぱり足が器用だったですよね。えーと、たしか五年生くらいからでした。それで小学校の学校対抗の陸上競技大会種目に千メートルがあったんですけど、まず校内の予選会で二番になり、そのあとの区の大会でも二番になったんです。やっぱり速かったですね、特に練習もせずに… それがきっかけですね。あと、兄が陸上の長距離をやっていたというのもありますね。兄は当時北九州でも五番以内に入る選手でした。やっぱり血筋だったんですね。
お兄さんもランナーだったから当然かもしれないが、哲彦少年は、中学入学と同時に陸上部に入部している。とにかく九州は長距離などの陸上競技が盛んな地方だ。やがてその才能が開花し福岡県大会で一番という快挙を成し遂げる。
あと三年の時にその県大会で二位になりました。だいたい、いつも三番以内には入っていました。大会はそこまでしかないんです。全国大会もあるんですけど、勝ち進んで行くとかいうのじゃなくて、標準記録を破れば誰でも出れる大会だったんです。ランキング表っていうのがあるんですけど、上位には入っていましたから、学校さえ承知してくれたら出れましたね。でも選手を東京に行かせたりするような学校じゃなかったので。まあ、学校はあくまでもクラブ活動の一環とみなしてそれほど力を入れていなかったんですね。
このあと、金哲彦さんは高校でも陸上部に入ったが、大きなスランプに直面する。
結局全国大会までは行けませんでした。私の競技歴のなかで高校時代のだけがぐっと落ち込んでいるんです。一年・二年と順調に記録は伸びていって、ランキング表でもだいたい五十番に入るくらいだったんですけど・・・ インターハイに出るためには、予選勝ち抜かなきゃいけませんよね。二年の時にぎりぎりまでいったんですけど、あと二、三人ぐらいのところで行けなかったんですよ。で、三年で行けるかなと思ったら貧血になってしまいまして、それで一年間棒に振りました。
貧血は長距離選手の持病らしい。ランナーにたまったストレスが内臓で出血を起こさせるのだそうだ。今でこそ原因が知られるようになったが、当時の一地方高校生にはもう終わりだと思わせるほど致命的なものであった。
その後金哲彦さんは早稲田大学教育学部を志望し、げっそりと痩せるほどの猛勉強の末、見事現役合格を果たす。
当時中村清監督がいらっしゃって、瀬古さんがエスビーにも入っていて、一連のなかで何となく憧れは持っていたんですよね。それとは別に、高校を卒業したら私はもう東京の大学に絶対行くつもりでしたから、受験勉強をずっとやっていました。記録は完全に落ちていて、ここらで潮時かなという感じだったんですよ。卒業直前はもうそんなに練習していなかったですし、走るのでいくのは無理だから受験勉強していけってことで。たまたまその高校の先輩が早稲田の競走部に入ってまして、まあそんなに当時記録もないけど、とにかく受験勉強して受けてみようってことで、それで受けたんですよ。その二つが要因でしたね、やっぱり早稲田がいいなっていう感じで。ただもし体が治らなければ、入るだけ入って陸上はやめて、他のことやろうと思ってたんですよ。
地方の無名のランナーは、ここを転機として急速に実力を蓄え、トップランナーに踊り出ることになる。
一年の終わりごろに箱根駅伝てので突如抜擢されてですね。区間二番だったんですよ。いきなり無名の選手が。全国的には無名でしたから。それでデビューしたというか世間に名前が知れたと。次の日の一月三日のスポーツ新聞の一面に載ったんですよ、いきなり。それはなぜかというと、私自身のことじゃなくて早稲田の駅伝が三十年振りに復活したと。ずうっと低迷してたんですよ、優勝したのは三十年前でしたからね。まあ、その次の年いよいよ三十年振りに優勝するんですけれど、その前年はずうっと低迷していたのが三十年振りに復活の兆しをみせたというのが、また一年生で無名の奴が頑張って二位になったていうのがドラマチックですよね。
何とこの時、金選手は早稲田出身ということで、当時の竹下首相に招かれ握手までしているのだからいかに大騒ぎだったかがわかる。しかし、三年の時に二〇・六キロの区間新記録を打ち立てた彼も、「山登りの木下」と言われたように、通名を名乗っていたが、卒業・就職と同時に本名を名乗り始める。
考えていましたずっと。考えて機会をねらっていたというか、一番いいのがやっぱり組織をかわってというか、節目ですね。その時までは木下でした。当時は本当に私はその名前しか知らなかったです。物心ついた時からうちもずうっと通名でしたし、小中高大とまあそれがあたりまえだったんですね
こんな環境は、同胞青年の間では別段珍しくもなかろう。彼はなぜ本名を名乗りたいと考えるようになったのだろうか。
誰でもあると思うんですけど。民族意識に目覚めるとか。高校ぐらいの時からですね。きっかけっていうのはないですけど、いろんな本を読んだり、親の話を聞いたり人の話を聞いたり。なんかそういう時期ってのありますよね。自分のアイデンティティーを探してというか純粋に考えるような時期が、それが私の場合高校から大学にかけてずうっとそうだったんですよ。
両親からはほとんど(民族教育は)ないんですよね、不思議と。「いや、お前は朝鮮人だ」と子供の頃から言われ続けましたけど、自分たちはどういう生い立ちで祖父ちゃんはどうのこうのっていうそういう話はほとんど聞いた覚えないですね。皆さんのところより貧しい家庭でして、父親も塗装職人をやってたんですよ。仕事もひどい肉体労働で、なかなか苦しくて家に帰ってきたらもう御飯食べて酒飲んで寝るというそんな感じでしたから。ですから特に父親からの教育は、まあ精神的な教育は受けましたけど、知識とかそんなのはあまり受け継ぎませんでしたね。
父の弟の叔父が物書き作家をやってまして、叔父が書いた本を読んで知ったんですよ。ですから知識は叔父からほとんど受け継ぎました。精神的なものは父から受け継ぎましたけど。
民団の方でもやってると思いますけれど、高校の時、総連系の高校生を集めるサークルみたいなのに一度参加したことがあります。ま、ああいうとこ行くと民族意識をやれ鼓舞するような感じでやられますけど。で、いろんな討論とかしてお前はどうだ、こいつはどうだとか言われる。皆さんも体験していると思いますけど、私にもそういうのありまして、何回も繰り返しながら少しずつ自分のなかでやっぱりみつけていったと。答えはやっぱり出したいですからね。
金哲彦さんにとって、本名を名乗るということにはどのような意味があったのだろうか。
本名っていうのはひとつの手段だったですね。本名でやろうっていうことが目的ではないですね。表に出して生きるというか、まっすぐ生きるていうんですか、やっぱり「木下」っていうのはどう考えても嘘ですから。誰が歴史的に考えても自分のなかで考えても、やっぱり例えば他の本当の日本人の方と話しして「木下」って言われると、違和感あるですよね、すごく。ですから本名で「俺は朝鮮人だ」っていうのは、別に主張するんじゃなくて、その違和感を取り除きたかったんですね。
人に対するのじゃなくて私自身の中の問題を解決したかったです。名前っていうのは一番わかりやすいんですよね。
社会に出るまでの間は本名というケースもよく見受けられるが、彼の場合社会人になると同時に本名を使用し始めた。
就職っていうのは社会人の出発点ですから、それまでの学校時代っていうのは充電期間というふうにして、出発点として新しい自分を作って行きたいという感じですね。私の中ですごくそれは大きかったですよ、自分で飯を食うか親に飯を食わしてもらってるかってこの違いは。
現在の職場を決める時も、金哲彦さんは敢えて陸上の世界では無名のところを選んだ。
当時リクルートはクラブを作る意志があったんですよ。まだなかったんで、私が入って作ったんですけど。(リクルートに入ったのは)会社には意志があったということと、私はそういうことのできる会社を探してということですね。第一期生になりたかったんです。
(はじめは)全く一人だけでした。で、社内で話し合って、「あの人監督にしよう」「この選手をとろう」とか、私もそういう話に加わって。もちろん上の人が考えてやったんですけど、最初に私が入ってこういうクラブにしようという提案をして、そういう雰囲気のクラブに作っていきました。今はもうマネージャーも全部入れてますんで、彼らに全部まかして私はもう走るだけになったんですけど。
こんな中にも、先駆者的な生き方の一端が覗いている。高校の選択の動機について金哲彦さん語る。
本当にいつも進路決める時は面白いんですけど、常になんか強いとこに入るというのはあんまり好きじゃないんですよ。それより、これから伸びるんじゃないかというところに・・・ 自分がなんかやってやろうというのはいつもありますんで。
彼の入社により結成されたリクルートの陸上は、結成五年にして東日本最強のチームに急成長する。女子駅伝は、全国三位となり、日本記録も保有している。男子も、五千メートルで今年日本ランキング二番という堂々たるもの。
しかしながら、大学時代に華々しい活躍をした割には、オリンピックを始め、金選手の国際舞台での活躍は一度もなかった。その理由は、彼が朝鮮籍を持っていたためである。
私の朝鮮籍ってのは、北朝鮮の朝鮮籍じゃないわけですよね。無国籍ていう朝鮮籍ですから、私にオリンピックという道はないわけなんですよ。国の代表でしか出れませんから。オープン参加ってのはないですからね、オリンピックは。あくまでも国旗を背負って走んなくちゃいけないんで、ものすごく悩んだんですよ、そこで。
別大マラソンの時に三位になりましたよね、その時に孫基禎さん(注)がいらっしゃって、二時間十二分三十五秒って私のベスト記録を出したんですよ。その当時の韓国記録を二分以上上まわってたんですよ。だからその時誘われたんですけど、当時韓国籍に変えてればまず間違いなく出られたと思います。その後また破ったんですよね。韓国の方が上回ったんですけど、その時点では良かったんですよ。で、今はもう韓国はすごく強いですから。私の記録よりも遥かに、一分くらい速いですけど。
その前にもっと布石があって、ロサンゼルスオリンピックの前からですね、中村監督から言われてたんですよ、ずっと大学一年の時から。その時には中村監督はもう僕の国籍知ってましたから。「お前はマラソンやったら韓国で代表になれるから、今のうちに韓国籍に変えてロスに行くぞ」って言われてたんですよ。でも、その頃はまだ自分の背負っている国籍を変えるという気持ちがなかったんで、陸上と自分の国籍どっちを取るかっていうか、国籍を取るかっていうよりは、どっちが大事かていうことですごく悩んで考えたんですよね。
親からずっと受け継いできた朝鮮籍ってひとつありますよね。私の中で思想的には何もないんですよ。別にどちらを支持してるとかいうのないですから。思想的なものじゃなくて、血みたいなもので… ここで陸上を取ってその方便として変えるか、もしくはそれを守っていくかっていうことですごく悩んで、ずっと変えられなかったんですよね。ですから二度のチャンスにも(国籍を変えるというのは)やっぱりなかったですね、私には。
二度のオリンピック挑戦を逃して、金選手は昨年七月に韓国籍に切り換えた。もちろん国際試合で活躍するためだ。
いろいろ考えてみて、結局その最初の二回の時には踏ん切れなくて、三回目をむかえていろいろなパターン考えてみたんです。たとえば帰化して日本国籍になるとか。とにかく朝鮮籍である以上はアジア大会とかワールドカップといった国際大会には出れないですから。
大学三年の時、インカレですよね。当時ユニバーシアードってのがありましたけど、それへの代表権があるはずなんですよ、優勝者には。でもぜんぜん声も掛からないですよ。あと青梅マラソンでも二位になって、その時のボストンマラソンに行く権利をつかんだんですけど、やっぱりだめなんですよ。権利はあるんですけど、あれは日の丸背負って走んなきゃいけないんで、私には権利がないんですよ。みんな他の人、私が日本人じゃないってこと知ってますから、もう最初から声掛からないですよね。
やっぱり国内の国体っていうのと国際大会とでは意味合いが全然違いますから。国旗をつけて走るっていうのは、ものすごくやっぱり大きなことですからね、これは。ですから、私はじゃどこの国旗をつけて走ればいいんだっていうのが一番問題になってるんですよ。
一つの選択肢として日本籍に帰化することを考えた時もあったが、結局は韓国籍をえらんだ。北の国旗を付けて走ることは考えられないという。しかし、心のなかで苦悩に決着がついたのは、たんに国際大会出場を逃したからというだけではない。
そういう結論を自分の中で出したのとプラスして、ソウルオリンピックがありましたね。私テレビで見てまして、韓国に対するイメージ変わりましたよね、だいぶ。良くやったと、すごいなというふうに。去年実際にソウル行っても驚きました。その後、天安門事件ありましたよね。あれもすごい私の中でやっぱりショックだったですね。最終的な引金を引いたというか、そうなりましたね。父とも電話で「あれどう思う?」とかそういう話をしたりしましたし。国籍っていうよりは、政府とか政治とかにこだわる必要はないなと。
こうして手に入れた国際試合へのパスポート。さっそく韓国に遠征した金哲彦さんをまたしても不運が見舞う。
とりあえずこれからむこうで走る機会が増えるだろうし、顔見せとか、あと慣れる必要もあるからっていうんで、去年の(韓国の)国体に参加したんです。五千メーターに出て五番か六番ぐらいだったですね。まあ軽く足慣らしみたいに走ってきたんですけど、それが十月ですね。それで今年の三月の「東亜マラソン」っていうソウルでやったの、あれアジア大会の予選だったんですけど、本当に本来ならばそこで優勝したかったんですけど… ところが走ってる途中に肉離れを起こしまして、三十キロで棄権です。最悪の事態。
本来ならば、北京のアジア大会で金哲彦さんの力強い雄姿が見られたに違いない。
中国でやるアジア大会ですからね、この大会には是非出たかったですけど。やっぱり大きな意味ある大会ですから。
残念な結果に終わったにせよ、家族全員のなかでも初めての渡韓だった。
とにかく最初にやっぱり飛行機から大地が見えてきた時は、こうなんかジーンとしました。「ここがやっぱり祖先が住んでた大地か」みたいに思いました。そういうセンチメンタルな気持が最初ありました。あと国に実際に着いてからは、やっぱり外国でしたね。違和感がありましたね。一般的なことは知ってましたけど、やっぱりカルチャーショック。
人の資質が違うというか、やっぱりなんだかんだ言っても私たちこっちに住んでいる人は日本人的になっていますから、あちらの激しい喧嘩してるみたいに喋るやりかたとか、ああいう人たちとはやっぱり違うなという気持がしましたね。
一緒に走った人たちの走り方というかレースの駆け引きとかも全然違いますね。なんというんですか、こう一本気ですね。向うはガーッとやって、とにかくがむしゃらにやって、もう日本人のような微妙な駆け引きしないですね。バーッと行ってもう… 格闘技向きですよあれは、根性でやるというホントそういう感じですね。
記録でいえばまずまず通用するんですが、走った感じではやっぱりあれに慣れないとちょっと今後がきついなという感じですね。全然違うんですよ。
やっぱり最終的には住むのはちょっとつらいんじゃないですかね。「海峡を超えたホームラン」っていうのがありましたね。あれに野球選手が向うで苦労したって話ありましたけど、ああいう感じになると思いますね、きっと。多分同じようにまず言葉の壁にぶつかるでしょうし、気質も違うとかですね。
食事はおいしかったですね。本場で。ちょっと日本の韓国料理よりきついですけど。
金哲彦さんは韓国語ができない。向うの選手と話をする時も英語でしゃべるということだ。同胞青年ならよく経験するように、本国の税関でも韓国語ができないとなじられたりした。金哲彦さんにとって、在日の民族性はどのようにとらえられているのだろうか。
どこかしらには残って行くと思うんですよね。完全に韓国人の子供じゃなくても、私がこういう生き方をしていれば子供にも影響を与えるでしょうし、私たち以降の世代の抱える問題だと思うんですけど、やっぱり日本に生きていくと思うんですよね。あくまでもマイノリティーですから、どうやって生きていくのか、このまま例えば地方自治体の選挙権を与えられて細々と生きていくのか、それともアメリカのように多民族国家になって一応国籍日本国籍与えれられて、各民族集団作って生きていくのかですね。
どうなるかちょっとわからないですから、でもただわかっていることは、日本でずっと生活して生きて行く以上、やっぱり生きやすいようにしてあげた方がいいと思うんですよね。
多分(子供には)こうしろとは言わないと思います。ただ自分のやってることでわからせるといいますか、それはこちらから押しつけるんじゃなくて、父親の生き方を見せて学ばせるとそういうふうになると思います。
三十歳超えるまでは、走ることをライフワークとして取り組みたいと語る金選手。その一方で、在日として走ることの意味も熱っぽく語る。
とりあえず今はこういう勝負の世界にいますので、ベストを尽くしていい記録を出せば、広くいろんな人にも知れ渡りますし… 時々いろんな方に言われるんですけど、やっぱりスポーツっていうのはすごくわかりやすいですから、特に僕のように本名でやって、それからテレビに出てマラソン走っていろいろ出ると、やっぱり同胞の人たちが喜ぶというんですね。それも一つの走ってる大きな意味かも知れません。特に意識はしてませんけど、結果的にそうなればいいなって。
でも実際そうなんですよ。あの、マラソンしてても、全然知らない人、まあ日本人じゃないなって明らかに分かる人たちが応援してくれてる人が多いんですよね。声をかけてくれた時に「あ、この人明らかに日本人じゃないな」っていう人がたくさんいるんですよ。沿道を走っていてわかるんです、それが。
金哲彦さんが自分の少年時代を振り返りながら、在日同胞青年へのメッセージとして語ってくれた。
過去の自分を振り返ってみると、やっぱり「木下」で生きてた時代ってのはやっぱり「うしろめたさ」ってのがあったみたいですね。何となく嘘をついてるなという。それは自分のなかだけのことなんですけど、多分そういう「うしろめたさ」ってのは皆さん持ってると思うんで、「本名であれ通名であれ、これからの時代もっと胸を張って生きていいんじゃないの」っていうことを少し言いたいですね。
名前という部分じゃなくて、別に韓国人・朝鮮人であることを恥じるということ自体ナンセンスの時代だから、そういうことよりも、自分のやっていることを一生懸命やることによって、いろんなものをなくしていくってできるんですから。
一人の長距離ランナーとしての自分と、民族の一員としての自分のはざまでさまざまに揺れ動き、苦しんだ金哲彦選手。僑胞であるがゆえの悩みは、同胞青年の身近にも同じような経験をしている人がきっといるはずだ。
残念ながら今年のアジア大会への出場こそ果せなかったものの、金哲彦さんならきっとまた桧舞台で世界のトップ選手と競いあう場面を見せてくれるに違いない。その時こそ「キム・チョロン、頑張れ!」と声の限り応援しようじゃないか。
(注)孫基禎 一九一二年、新義州に生まれる。一九三六年第一一回ベルリンオリンピックのマラソンに当時植民地人であったため日の丸を付けて参加、大会新記録で優勝する。当時、本国の「東亜日報」が日章旗を消した写真を掲載し、停刊処分を受けた事件は余りにも有名。著書に、自伝「ああ月桂冠に涙」(講談社刊)がある。
[目次へ]
皆さんのメールが励ましになります。
どうぞお気軽にお送りください。