子育てをしながら
(2号掲載)

キム・テジャ

 夜十時。二人の子供を寝かしつけて我が家にやっと静かな時が訪れる。少しうつらうつらしながら横を見ると寝相の悪い二歳五ヵ月になる長男はすでに場外の人となっている。そして、生まれて二ヵ月の長女は、新米のくせに遠慮もなく大の字になってお休みだ。

 やっと自分が自分に戻る時間だ。さて新聞でも読もうか、いやニュースステーションを見るかと考えながら体を起こそうと思うのだが、これがなかなかしんどい。育児は自分を育てること、「育自」だとかっこつけたいが、いやそれよりなにより育児は「体力がいるもの」と定義したい一瞬である。

 「テジャさんとこは民族教育はバッチリですね」「バリバリの韓国人に育つんやろね」とよく同胞の友人から言われる。しかし、日頃子育てについてこの子たちの父親とはほとんど話しをしたことがない。自他ともに認める似たもの夫婦の私たちは、何といっても計画性がないというところできれいに一致する。どたん場にならないと考えない。ふたりが、まだ二歳やそこらの子供の将来や教育はどうするかなんて話し合うことはない。子供に手がかかりすぎてそんなこと話すひまもない。しかし、本当は話さないのは二人に暗黙の了解があるからだと思っている。

 私たちはよく似た経歴をもっている。幼い頃から自分が韓国人であることをうとみ、それを隠して小・中・高と学校生活を送った。大学に入学し素晴らしい青年会、学生会の先輩と出会い、人生が一転。在学中に本名宣言。その後、青年会で活動し五年前、指紋押なつを拒否。通名を捨てた。その外登法改正運動で知り合うことになった。

 子育てについて「こうしていこう」というものはない。ただ自分たちのこれまでの失敗を、まわり道をこの子たちには繰り返すまいということが二人の心の中に共通にあるように思える。

 さっきも言ったが、私は物心ついた頃から韓国に対する嫌悪感があった。そして自分が韓国人であることがバレないかヒヤヒヤ、ドキドキしながら生きていた。

 魚屋の「鮮魚」とある看板の「鮮」という漢字ひとつにハッとした。また、小学生の頃見ていた「おれは男だ!」というテレビドラマで、主人公の森田健作が「おれは商船大学に進む」というせりふが朝鮮大学に進むというふうに聞こえて、びっくりしたこと。とにかく例をあげればきりがない。森田健作が朝鮮大学に行くかいなと今ではもう笑い話にしかならないが、当時のひきつった顔の自分の姿を思い浮かべると、やりきれない気持である。

 それから悔まれることは、小・中・高の学生生活を通して親友と呼べる友人がいないということである。単なる遊び友達はたくさんいるし、ギャグをとばし合う友人もいる。今でもつきあいはある。が、今だに心の中のことを全部話し合える小・中・高時代の友人は誰もいない。当時のその子たちとのつきあいは、自分が何者か知られないように一歩距離をおいたものだったし、自分自身「どうせこの子たちには自分の苦しみなんてわからないんだ」という冷やかな気持でいたのだろう。そんな気持でつきあっている子たちが親友になるはずもないのである。これは非常に不幸なことである。

 思い出すのもいやなそんな時代に訣別したのは本名を名のり始めた大学二年の頃だ。それからもう八年近くになる。しかし、韓国・朝鮮に対するあの独特なドキドキ・ヒヤヒヤは、本名を名のったから、在日韓国人として生きていこうと決心したからといって、完全に消滅したわけではない。自分は今でも百%自然に、あるがままに生きているとは言えない。本名を名のって以来、自分は韓国人の代表、自分を通して日本人が韓国人を見ていると、心のどこかでどうしても気負っているところがある。顔に太極旗が貼りついているかのような錯覚に陥る。

 また、オモニとハルモニがタクシーの中などでウリマルで会話しているのを聞くと、今でも妙に運転手のおじさんが気になる。そんなことがあるたびになぜこんなに自意識過剰なのか、もっと自然に!と自分を変えようと努力する。しかし、小さい頃から養ってきた感性、心の動きはそうやすやすと変わらないものだ。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。

 もし、自分が生まれた時から本名だけで生活していたら…と思う。今の自分とはまったく違う性格の人間になっていたかもしれない。本名で学校に行っていれば、友達が遊びにくるといっては、部屋にある韓国の飾りやカレンダーを隠さずにすんだろうし、道徳の時間に差別についてとりあげられるからといってズル休みすることもなかった。受験の時も受験票に書かれた本名を、一緒に行った友人に見られたと思ってテストが手につかない…なんてこともなかっただろう。本当は韓国人なのに日本人のふりをしたためにすべてが自然でなかった。「名前」という自分の表看板がウソであったためにすべてが歪んでいた。

 

 同胞子弟を対象に行われているオリニキャンプは必ずといっていいほど、「あなたの本名はこうなのよ。ウリマルでこう読むのよ」というところからスタートする。初めてキャンプに来て、初めて自分の本名と出会う子もいれば、毎年参加する子供は年に一回本名を口にし、またそう呼ばれる。自分の名前を「学ぶ」、本名と「再会する」。この異常な状況は一体あと何年続いてゆくのだろう。

 私は本名と通名のことを考える時、どうしても忘れられない女の子がいる。それは高美和さんという当時市立尼崎高校二年生の女の子で、日本の学校に通う同胞生徒の集会で彼女の話を聞いた。私は当時大学二年生で、本名宣言をして二・三ヵ月たった頃だったと思う。高さんも「最近本名宣言をしたが、なかなか友人に本名で呼んでもらえない。だが、そういう友人たちに通名で呼ばれるたびに説明し、『本名で呼んで』と訴えている」という。

 おそらく「今まで言わなかったけど、実は私は韓国人で…」という調子で始まるその作業がかなりうっとおしいものであることは、同じ境遇の私にはよく理解できた。それなのに彼女はこう言った。「十五年間も通名を使ってきたんだからしんどい思いをするのはしょうがない。頑張って、それと同じ十五年かかっても本名をとり戻す」。私はその時、「なんでこんなことになるのか」という気持でいっぱいになった。高さんも私も何故こんなにまわり道をしてきたのだろう。

 こんな小さな彼女にこんなにしんどい思いをさせるのは一体誰なのか。異なるものを排除してきた日本社会なのか、子供がいじめられるのを恐れた彼女の家族か。

 私たち二・三世の親も子供に当然のように通名をつけ、それをなかば本名にする。自分たちがそうだったように。だけど、その前に自分たちに通名と本名があることがどうだったのか。今どうなのか。自問する必要がある。

 子供たちに韓国というものにどう向きあってほしいのか。どういう友人を作ってやりたいのか。十年後、十五年後「なぜ本名で行かせてくれなかったの」「なぜ通名がいるの」と子どもたちにくってかかられたらどう答えるのか。自分が何者かわからず悶々と過ごした時間は誰がとり返してやれるのか。よく考えてほしい。

 「まだ差別があるから」と言うかもしれない。今や問題は、本名を「名のらせてくれない」日本社会にあるというよりは、「名のってゆかない」主体の私たち在日側にあるとは言えないか。いや、厳しくそうであると言わざるをえないだろう。学校で「差別はいけない」と教わってきた私たちが差別を恐れて日本人のふりをしなければならない理由はどこにあるのか。二十一世紀を生きる子どもたちに、過去の暗い日韓関係を象徴する通名は必要ない。もうこれ以上、三世・四世へとひきずってはならない。

 私は、子どもたちに一人の在日韓国人として、自然に生きてほしいと願う。私のように、韓国人であるということで妙にかまえたり、萎縮したりしないでほしいと願う。そのためには子どもたちにどうしてやるべきか。おしりに火がつかないと動かない私は、まだ「これだ」と言えるものはない。ただ、早いうちに韓国を見せてやりたいというのはある。名前がひとつしかない小さい時に韓国を訪れる。子どもたちには私たち夫婦の経験しなかったことを色々経験してほしい。その結果、彼らがどう韓国というものを見るか、興味津々である。毎日が自分たちとはまったく違う新しいタイプの在日韓国人をつくる実験のような気がしてくる。まず、第一の実験、本名の方はもうすでに始まっている。

 

 雨が降らなければ毎日、近くの公園へ出かける。一日のうちで私も子どもも一番楽しい時間である。公園につくと決まって「ヒョンチョルくーん」と声がする。こんなに発音しにくい名前(長男本人はまだ正確に言えない)なのに、二歳にもならないゆかちゃんが呼んでくれる。女の子はおませさんだ。親は子どもそっちのけで顔なじみのお母さんたちが三々五々集まって、ストレス解消−ザ・井戸端会議の時間である。「表札の名字が別々だから、同棲しているんじゃないかって、はじめみんなで言っていたのよ」。同じアパートにすむお母さんが笑って教えてくれた。この暑さも何のその、子どもたちは今日も元気一杯である。

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