『ペパーミント・キャンディ』が描いた「圧縮近代」韓国時代に翻弄されたヨンホ~後編~
作品名:『ペパーミント・キャンディ』(1999)
脚本・監督:イ・チャンドン
(原題:『박하사탕』、英題:『Peppermint Candy』)
『ペパーミント・キャンディ』(1999、イ・チャンドン監督)は、光州事件の経験で人生を狂わされた男の20年間にわたる物語。この物語は、その間の政治情勢を背景にしつつ、彼の40代から20代までの20年間を、7段階に分けさかのぼる形で進む。
前回記事はこちら→「ペパーミント・キャンディ」前編
**************
2.「光州事件」とは
ベトナム戦争がピークにあった1960年代は、韓国とアメリカは蜜月ともいえる関係にあった。しかし、インドシナでのテト攻勢(1968)以後アメリカの旗色が悪くなると、両国の関係にはにわかに隙間風が吹き始める。1969年に成立したニクソン共和党政権は、アジアへのコミット削減の方向を打ち出し、日本や韓国の頭越しに米中和解・デタント(二国間の対立関係の緊張緩和)を推し進める。こうしたデタントの潮流のなかで、朴正熙政権は自主防衛の方向を打ち出した。重化学工業化はこの自主防衛の産業的基盤をなすものであった。
1970年代末にはあらゆる分野で維新体制の綻びが目立ち始める。重化学工業分野での無理な過重・重複投資、さらに物価高騰や技能・技術者不足からくるコスト高が競争力を損ね、韓国経済はみるみるうちに下降し始める。
1979年初めのイラン革命に始まる第二次オイルショックがこれに追い討ちをかけた。政府批判は強大になり、「カミカゼ闘争」といわれた学生運動や在野の運動が盛んになっていく。騒乱への対応をめぐって政権中枢に亀裂がはしる中、18年におよんだ朴正熙政権の意外な幕切れがやってくる。
1979年10月26日、中央情報部長官・金載圭によって朴正熙とその側近の車智撒大統領警護室長が射殺される。朴正熙暗殺事件の翌日(27日)、済州島を除く全国に非常戒厳令が宣布される。
1980年2月29日、崔圭夏政府は尹潽善、金大中など687人を復権させ、「ソウルの春」の民主化ムードはピークを迎える。だが金大中と金泳三は対立し、金鍾泌も次期政権に意欲を見せて「三金時代」が幕を開ける。
学生運動は、学園の民主化や軍事教練反対のための闘争を展開し、5月13~15日にデモは頂点に達した。14日にはソウル市内の主要大学21校、5万人の学生が戒厳令の解除と早期改善を求めて街頭に進出した。
〈中略〉17日、戒厳司令部は非常戒厳令の拡大(済州島を含む全国に拡大)措置を発表し、18日には、金大中、文益煥、金鍾泌、李厚洛など26人を騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で逮捕し、金泳三を自宅軟禁した。さらに、政治活動の停止、言論・出版・放送などの事件検閲、大学の休校などを盛り込んだ戒厳布告を発表した。5・17クーデターである。
〈中略〉全国的に学生運動が高揚した5月には、光州でも民族民主化聖会期間(8~14日)が設定され、非常戒厳令の解除など政治的要求が出された。民族民主化聖会の最終日には7000人の全南大学生が街頭に進出した。
〈中略〉18日未明には、第七空挺旅団の三三大隊と三五大隊が全南大と朝鮮大に配置された。〈中略〉朝、この空挺部隊と学生との最初の衝突が全南大学の校門前で起きる。200人余りの学生との間で始まったこの衝突は、指導部が機能麻痺の状態の中で起きた自然発生的なものだった。校門前でいったんは蹴散らされた学生たちは、光州駅前広場で隊列を整え、道庁に向かうメイン・ストリート(錦南路)をデモ行進し、今度は機動隊と衝突した。午後には空挺部隊が市内各所に投入され学生たちを手当たり次第に殴打して服を剥ぎ取り、下着一枚にしてトラックに押し込んだ。この日400人以上の学生が連行され、80人が負傷した。
19日、デモ主体は激昂した市民たちに替わった。第十一空挺部隊が急派されたが、市民たちは角材、鉄パイプ、火炎瓶などでわたりあった。午後、デモ群衆は2万人に膨れ上がり、まさしく民衆抗争となった。衝突は21日までつづいた。
〈中略〉21日には、空挺部隊が一斉射撃に及び駅前広場は血の海となった。これに対して市民たちは羅州や木浦の武器庫を襲って武装し、市民軍となった。2
その後、戒厳軍はいったん撤収して光州は市民自治となるが、軍は光州市を完全に封鎖し、米軍の承認を受けて27日、市民軍占拠下の道庁を武力鎮圧した。2001年までに韓国政府が確認した光州事件での犠牲者(死者)の数は、民間人168人、軍人23人、警察4人、負傷者は4782人、行方不明者は406人であるが、実際には民間の犠牲者は2000人とも言われる。
***
3.ヨンホが生きた時代(1970~90年代)
1980年5月に女子高校生を射殺してしまったヨンホは、戒厳令のしかれた韓国の中で民間人を鎮圧しようとする軍事独裁側の人間である。
『ペパーミント・キャンディ』の中で主人公のヨンホが劇中に遭遇する一番大きな事件は、この光州事件のさなかヨンホが無実でまだ若い女子高校生を殺してしまったというシーンである。
この事件以降ずっとヨンホの中に拭えない大きな罪悪の意識がまとわりつく。葛藤するヨンホとともに、韓国という国自体も大きな変化を急速に遂げていく。
1979年の朴正煕大統領暗殺後の1980年、経済は一時的にマイナス成長に転じるが、1981年以降急回復し、1988年のソウルオリンピックを成功させソ連崩壊を経て、高い経済成長を続けた。
まさに「漢江の奇跡」である。
ベトナム戦争で培った施設設営のノウハウと中東に影響力を持っていたアメリカとの良好な関係をバネに1970年代の中東の建設ブームにも乗っかり、近代的な建物が次々に急速に建設されていった。1996年には、韓国は正式に先進国の一員として認められOECDに加入した。
一工場員としてこつこつ働いていた純粋無垢な青年ヨンホは、無実な女子高校生の命を奪ってしまったというトラウマを抱えて以降、乱暴な拷問を繰り返す荒くれ刑事という昔からは想像もできないとげとげしい人格に成り果てる。
経済成長の波に乗っかり腕力で友人と会社を共同経営する社長になり、自分は平気で愛人をつくり不倫しておきながら、自分の妻の浮気に対しては乱暴に振る舞うヨンホ。
やがてその共同経営者に裏切られ、投資していた企業の株価も暴落し一文無しになる。妻にも捨てられたヨンホは、廃人となり、自殺をする前に誰を道ずれにするかに執着するまでに落ちていく。
4.おわりに
『ペパーミント・キャンディ』は、 1970~90年代、韓国という国が光州事件という悲劇を大きなターニング・ポイントとして民主化への道を辿って行き、短期間で急近代化していく圧縮近代化の時代が背景にある。
また、共同経営者の裏切りや、妻の裏切り、また誰も本気で愛することのできないヨンホ自身の妻に対する裏切りという形で圧縮近代化がもたらす歪みも表現されている。無実で若い女子高校生を殺してしまったという大きな罪悪感と、その罪への贖罪を考える間もない圧縮近代化という急速な時代の大波にのみこまれ、ヨンホは荒れ果てていく。
ヨンホは、手に入れた虚構をすべて失った時に、自分が無垢で誠実だった時代の原点の場所に戻り自殺する。ヨンホは、1970~90年代の「圧縮近代」としての韓国を象徴する記号として劇の中で機能している。
引用文献
1 キム・ミヒョン責任編集『韓国映画史――開化期から開花期まで』(キネマ旬報社、2010年)pp332‐333
2 文京洙『韓国現代史』(岩波新書、2005年)pp141‐144
崔 正憲 (ちぇ じょんほん)
札幌出身の在日三世。
2005年 学習院大学経済学部経営学科 卒業
2015年 日本映画大学脚本・演出コース 卒業(一期生)
監督作品 『熱』(2015) 第9回 TOHOシネマズ学生映画祭 準グランプリ、第19回 水戸短編映像祭 準グランプリ 『DUEL』(2013) 『ナニジン』(2013)
***
インタビュー記事→こちら