カミングアウト
先日、経済評論家の勝間和代さんが同性のパートナーが居ることをブログで告白した。ずっと同性を好きになる気持ちがあったそうだが、「こんな気持ちはおかしい」と自分の中で蓋をしていたそうだ。
彼女にパートナーができたのは最近のことだ。しかし、それでも周りの友人たちには隠し続けていたし、生活をしていく中でも相当気を使ったらしい。
カミングアウトをする際に「人生で最大の勇気が必要でした。」と勝間さんは語っていた。
彼女の言葉を読みながら、なんだか自分のことのように感じていた。
私の通っていた高校の隣には民族学校があって、「隣の学校の生徒とはあまりかかわるな」という当時の担任は言っていた。そんな言葉を受け取った私は「自分の正体がばれてはいけない」と思って生活していた。
日本の学校に通っていた在日の人たちにこの話をすると、「ああ、それは在日あるあるだよ。」と言われたものだ。もちろん、折り合いのつけ方は人によって違うし、何が「正しい」のかは分からない。
だが、そんな「あるある」が在日のものだけではないことを、私はある本を読んで知った。
オープンリー・ゲイのアクティビストで文化人類学者の砂川秀樹さんが書いた『カミングアウト』という本がある。この本は様々なLGBTの当事者たちの事例を通して性的指向を公にする「カミングアウト」について深く分析したものだ。
この本を読んでいてLGBTの寄る辺のなさに気づかされる。在日の場合、学校で在日であるとカミングアウトしなくても、家族のもとに帰ってしまえば、在日である自分を解放することができる。しかし、LGBTの場合、個人の性的指向だからこそ、家族に自分を解放することができない。むしろ、家族こそが自分自身の生きづらさの原因になってしまう。だからこそ、まずカミングアウトする際には親や友人に話をするということから始まる。
「在日特有」の父権的な家庭の中でカミングアウトはしにくいと思う。それは父や母から直系の孫(それも男の子)を期待されているということを知っているし、家族が居ることによって自分のマイノリティー性を解放できた経験もあるだろう。
マイノリティーだからこそ別のマイノリティーを抑圧してしまう現実がある。しかし、こうした現実を超えて、切実さを共有することはできないだろうか。この本の中で「カミングアウトは関係が作りなおされる行為」と書いているが、同じような経験は在日もしている。抑圧したりされたりする関係性の中から少しでも同じ声の大きさで語れる関係になれば、何か新しいものを生み出せるかもしれない。
在日はよく「同胞」という言葉を使う。実はこの言葉に対して、私はずっと違和感を持っていた。在日の中にも様々な人たちがいて、民族的なルーツだけでひとくくりにできない「複雑さ」を常に抱えている。もちろん、それはLGBTだってそうだろう。実際、LGBTの友人たちに話を聞いてみると様々な複雑さがある。お互いの複雑さをふまえながら、とりあえず、関係を作りなおす行為を地道にやっていくことが「共生」への近道なのだろう。
(金村詩恩)
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